沖縄 陶芸体験 漆喰シーサー作りしょっ
南部なちゅら店

秋田県 陶芸体験,学習,教室,漆喰シーサー作り,沖縄観光しょっ!

全国には数百箇所にも上る教室があります。教室のスタイルもいろいろ
ご自分にあった教室が見つかると思います。

全国の体験陶芸、教室一覧

秋田県 陶芸教室、体験

教室名   住所    電話番号

さくらきるん桜窯 秋田県秋田市桜ガ丘3丁目2-6 018-831-7035  
海窯社 秋田県秋田市土崎港西1丁目10-45 018-846-5400  
大館焼窯元大炎窯陶芸教室 秋田県大館市東字岩ノ下8-1 0186-49-3963
手作り工房 創遊舎 「陶恵窯」 秋田市外旭川八幡田一丁目2-18 018-868-0115
(有)日本セラミック 秋田県潟上市昭和大久保字北野白洲野上4 018-877-5018  
寺内焼古四王窯 秋田県秋田市寺内堂ノ沢2丁目1-12 018-846-2895  
須恵沢窯 秋田県秋田市上新城中字松木台87 018-870-2654  
じゅうる 秋田県秋田市保戸野千代田町16-37 018-862-8890
サクラキルンセラミックアートスタジオ 秋田県秋田市桜ガ丘3丁目2-6 018-831-7035

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●楢岡焼
楢岡焼(ならおかやき)は、秋田県大仙市南外地域にて焼かれる陶器である。独特の群青色の海鼠薬(なまこゆう)が鮮やかな色合いを出すことで知られる。
歴史
楢岡焼は、1863年(文久3年)に地元旧家の小松清治が、秋田市の寺内焼の陶工(最近の調査研究により、相馬焼から来た陶工という説が浮上している)を招いて窯をつくらせたのが始まりである(他に1867年(慶応3年)説もあり)。その窯は、1908年(明治41年)に現在の大仙市南外地域高野地区に移るまでは、楢岡川を挟んで西側に位置する大杉地区にあった。大杉の窯跡は楢岡焼大杉古窯と呼ばれ、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで、秋田県大仙市教育委員会によって発掘調査が行われた。
楢岡焼大杉古窯の発掘調査が行われるまでは、各資料では、楢岡焼は寺内焼系であり、白岩焼などの影響を受けたものとされていた。それは、楢岡焼の創業する時期に、秋田県内に白岩焼や寺内焼という大きな窯業地があったことと、楢岡焼大杉古窯の実態が不詳であったためである。発掘調査の結果、不明な点が多かった創業時(江戸末期)から明治後期までの製作技法や製品の種類が新たに判明している。
創業時の製品はオリーブ色の茶器類が多く、大堀相馬焼の技術で製作され、駒の絵が描かれた小坏や「相馬焼」と墨書きされた小坏がある。その後、製品は茶器などの高級品から日用雑器へと方向を変え、2代目宇一が活躍した明治中期以降に現在まで続く海鼠釉の製品が主体となった。昭和の戦時中には食糧増産用に地下水路の土管を製造することもあったが、小松氏が5代に亘って窯を守ってきた。昭和初期に加藤唐九郎や浜田庄司らが指導し、技術改良を重ねた結果、今日に見られる美しい青味を持つ焼き物が完成した。それに伴い、甕などの大物から食器などの小物が中心となっていき、今日ではコーヒーカップや小鉢といったものが中心となっている。
なお、楢岡焼の工芸技術は、1983年(昭和58年)に旧南外村の無形文化財に指定され、現在は大仙市の無形文化財として指定されている。また、秋田新幹線に使用されるE6系のグリーン車の内装は、楢岡焼の青をイメージしたものとされている。

●白岩焼
白岩焼(しらいわやき)は、秋田県仙北市角館町白岩で焼かれる陶器。県内最古の窯元であり、重ね掛けされた褐色の鉄釉と、青みの強い藁灰釉(海鼠釉)の対比に特徴がある。
歴史
白岩焼の陶祖は江戸時代の相馬藩浪人松本運七である。運七は大堀相馬焼の関係者であり、秋田藩によって鉱山の陶製ルツボ製作のために招聘された技術者であった。藩の仕事のかたわら開窯を志すも、諸事情でうまくいかず適地を求めるうちに秋田藩の支藩・角館の東、白岩に良質の陶土を発見する。角館に仕える武士らの協力を得て、1771年(明和8年)秋田藩初の窯元として開窯した。運七のもとには白岩の住人である、山手儀三郎、千葉伝九郎、多郎助、菅原助左衛門の4人の弟子が集まった。白岩焼を地場産業として庇護するとともに技術の流出を防ぎたいという秋田藩の意向により、「陶技については親子のあいだでさえ他言無用」の誓約書を交わしたうえでの弟子入りであった。とくに一番弟子であった山手儀三郎はのちに京都に上り、上絵、楽焼などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作った。
需要の増大ととともに、最盛期には6つの窯に5千人の働き手を抱える一大窯業地となり、窯の集まる山の斜面地域は白岩瀬戸山と呼ばれた。白岩焼は製品の多種多様さに特徴があり、秋田藩主や角館城主の注文による献上品、庶民の生活日用品、特産品であった濁酒(どぶろく)の保存容器のスズ(長頸の壷)やカメなど、御用窯と民窯を兼ねた生産体制であった。また、白岩焼の作品には、陶工の個人名を示す刻印が刻まれたものがあり、江戸期には珍しい、個人作家として自負の萌芽が見られる。それらの陶工のなかには、藩内の他所で独立して窯をもつものが現れ、菅沢焼、寺内焼、大神成窯、栗沢焼など、その後の秋田藩の窯業に与えた影響は大きい。しかし、幕末から明治にいたる時代の動乱と廃藩置県で藩の庇護を失ったこと、藩外からのやきものの流入による競争の激化により、衰退期を迎える。廃窯する窯が続く中、1896年(明治29年)の真昼山地震によりすべての窯が壊滅状態となり、わずかに復興した窯も1900年(明治33年)、窯の火を消した。
現代の白岩焼
白岩焼の復興の機運が訪れたのは、およそ70年後の昭和時代に入ってからである。江戸期の窯元のひとり、渡邊勘左衛門の末裔であった渡邊すなお(1953‐)は大学在学中から、白岩焼の築窯を志していた。折から角館は白岩焼とともに桜の皮を用いる木工芸・樺細工でも知られており、そのふたつの県産品を訪ねて民芸運動の提唱者・柳宗悦(1889‐1961)と陶芸家であり人間国宝の浜田庄司(1894‐1978)がたびたび同地を訪ねていた。1974年(昭和49)当時の秋田県知事小畑勇二郎の依頼により浜田庄司が、白岩の土の陶土適正の検査を行う。陶土としての質の良さが判明し、助言を受けた渡辺すなおは翌1975年(昭和50年)白岩に和兵衛窯を築窯、白岩焼復興を果たす。その後、すなおは大学で同じ研究室に学んだ渡邊敏明(1950‐)と結婚、1993年(平成5年)には敏明による四室の登窯が完成し、現在にいたる。