沖縄 陶芸体験 漆喰シーサー作りしょっ
南部なちゅら店

佐賀県 陶芸体験,学習,教室,漆喰シーサー作り,沖縄観光しょっ!

全国には数百箇所にも上る教室があります。教室のスタイルもいろいろ
ご自分にあった教室が見つかると思います。

全国の体験陶芸、教室一覧

佐賀県 陶芸教室、体験

教室名   住所    電話番号
白石焼 瀧水窯陶芸教室 ~りゅうすいがま~ 佐賀県三養基郡みやき町大字白壁3915 0942-89-4434
六工房 佐賀県佐賀市大和町尼寺935-2 0952-62-0696
琳泉窯 佐賀県佐賀市神園2丁目1-2 0952-31-5138  
ムトウ彫刻工房陶芸教室 佐賀県佐賀市水ケ江6丁目6-14 0952-26-5808  
福工窯 佐賀県鳥栖市松原町1601-1 0942-83-2612  
西日本文化サークル佐賀教室 佐賀県佐賀市松原1丁目1-31 0952-26-1410
陶文窯陶芸塾 佐賀県佐賀市水ケ江2丁目7-11 0952-23-2312  
陶工房土都 佐賀県佐賀市赤松町3-24 0952-28-4139  
陶芸教室清海工房 佐賀県佐賀市呉服元町11-31 0954-27-3383  
土あそび工房陶芸教室 佐賀県佐賀市高木瀬町長瀬279-1 0952-31-9445
竹古場キルンの森公園飛龍窯 佐賀県武雄市武内町大字真手野24001-1 0954-27-3383  
巧工房の陶芸体験 佐賀県武雄市武雄町武雄7241-2 0954-22-2982
西洋陶芸レースドール教室・ライフスクール 佐賀県西松浦郡有田町白川1丁目4-18 0955-42-4648  
白石焼佐藤窯陶芸教室 佐賀県三養基郡みやき町大字白壁3854 0942-89-4422

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●有田焼
有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。
九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られる。
「有田焼」と「伊万里焼」
近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。また英語での呼称も "Imari" が一般的である。寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになった。有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては「伊万里焼」が使用されている。
歴史
肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂が日本に連れて来た陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖と言われていた。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。
近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色1色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮ではもっぱら白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている。
1637年(寛永14年)に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。

●伊万里焼
伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼、波佐見焼なども含む。
概要
中国では紀元前から原初的な磁器が製造され、後漢時代(西暦25年 - 220年)には本格的な磁器が焼かれていたが、日本では中世までのやきものは陶器であり、磁器は輸入品に頼っていた。日本で初めて国産磁器の製造が開始されたのは17世紀、有田(佐賀県有田町)においてであった。
伊万里焼の文献上の初出は寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)である。同書に「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。有田、波佐見などの肥前の磁器は、近世には主な積み出し港の名から「伊万里焼」と呼ばれた(近世には「今利」「今里」とも書かれることが多かった)。有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになったのは、近代以降、船に変わって鉄道が輸送の主力となってからのことである。研究者はいわゆる「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶことも多い。
歴史
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂は、豊臣秀吉のいわゆる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬申倭乱、1592年 - 1598年)に参加し、朝鮮から多くの陶工を日本へ連行した。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されているが、元和2年(1616年)に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できない。九州陶磁文化館の大橋康二らの窯跡調査によると、磁器が最初に焼造されたのは有田東部の天狗谷窯ではなく、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯であり、消費地での発掘調査などから、磁器製造の創始は1610年代であるというのが定説になっている。
1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。
初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。このことから、朝鮮出身の陶工が生産に携わったことが明らかである。一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来のものであると考えられる。
1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。これらは、加賀(石川県)の九谷が産地であると長年考えられていたことから「古九谷」と称され、現代の陶磁史では「古九谷様式」と称されている。
1640年頃からは鍋島藩が将軍家・諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。この藩窯製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。
中国では1644年に明王朝が滅亡。1656年には清により遷界令が発せられて、商船の航行が禁止され、中国陶磁の輸出が一時途絶えた。このため、それまで中国磁器を買い付けていたヨーロッパ諸国が日本へ磁器を注文するようになり、オランダ東インド会社から大量の注文が舞い込んだ。中国磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続した。
1670年代には、素地や釉薬が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになった。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称している。
1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。これを「古伊万里金襴手」と称し、この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。

●唐津焼
唐津焼(からつやき)は、近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部で焼造された陶器の総称。日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、作風・技法も多岐にわたる。茶碗は古くから「一楽二萩三唐津」と称されて名高い。分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。
歴史
唐津焼は、近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、2005年の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。
伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から強制的に連行した陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。
文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。
古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。
文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。
草創期は食器や甕など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。 
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
唐津焼の特徴
唐津焼の特徴は李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。窯は連房式登窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。
唐津焼の種類
唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。大きく分けて次のようなものがある。
絵唐津
器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。
朝鮮唐津
李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。上下逆の物もある。
斑唐津
長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。
三島唐津
朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
粉引(こびき)唐津
褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。
奥高麗(おくごうらい)
高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。和物茶碗として極めて評価が高い。
二彩唐津
緑色銅釉と茶褐色の鉄飴釉で松文などが描かれた。産地としては武雄系唐津古窯などが知られている。現在はあまり作られていない。
瀬戸唐津、青唐津、黄唐津、彫唐津、刷毛目唐津、櫛目唐津、蛇蝎(じゃかつ)唐津

●白石焼
白石焼(しらいしやき)は佐賀県みやき町北茂安で焼かれる陶器。古くは磁器が中心で、有田、唐津と共に肥前の代表的な磁器産地として名を馳せ、有田の西目の皿山に対し、東目の皿山と呼ばれた歴史を持つ。
歴史
古くからみやき町のある三養基郡一帯は須恵器、瓦などが焼かれていたが、白石焼としては宝暦年間に枡谷金右衛門が深掘丹作の奨めで根を下ろし、この地で作陶を始めたのが始まりである。金右衛門が焼く陶器は隣国の久留米藩などで評判を生んだ。その後、寛政12年、鍋島藩お抱えの陶工、藤崎百十が天草の陶石を使った磁器を焼き始めた。更にその数年後、文化3年には佐賀鍋島藩の分家である白石鍋島家が御用窯として知られていた伊万里の大川内山から陶工を招き、本格的な磁器産地とした。特にこの頃に京から招かれた臼井走波の染付磁器は高い評価を浴び、走波焼とも呼ばれた。その後、野田吉次郎、中村吉兵衛といった名工を輩出、白石は有田に比肩しうる名産地として名を馳せた。
しかし明治維新によって藩政が崩壊し、後ろ盾を失った白石焼は急速に衰えを見せた。中国風の作品を作ってみたり、有田焼(伊万里焼)のように輸出を睨んだ大量生産を試みたりしたが、いずれも空回りした。そして1902年(明治35年)には磁器産業は廃絶した。その後は陶器だけを焼き続け、土鍋、火鉢、水甕、植木鉢などの生活雑器を焼くことで凌いでいったといわれる。また、駅弁と一緒に売られていた茶器(汽車瓶)もほぼ独占的なシェアを持っていたという。最盛期には60軒あった窯元も年月と共に減少していき、2011年現在では4軒の窯場が残る。窯場は閑散とした竹林沿いにあり普段はひっそりしているが、毎年9月に行われる陶器市の頃は多くの観光客で賑わいを見せる。
特徴
白石焼の特徴は原料の土にある。天草の陶石に加え、「五穀さん」と呼ばれる地元産の粘土を混ぜて用いる。民芸調の作品が主流で、伝統的な飛び鉋、焼き締め、掻落(かきおとし)などの技法に加え、現代的な感覚の絵付けを行っており、白を基調とした端整な気品を持ちながらも、季節の花などをモチーフとした意匠も相俟って、どこか懐かしさを感じる独特の風合いが特徴。

●肥前吉田焼
肥前吉田焼(ひぜんよしだやき)は佐賀県嬉野市にて焼かれる磁器である。歴史は非常に古く、天正5年頃に作られた陶磁器の破片が発掘されている。後に佐賀藩主、鍋島直茂が朝鮮陶工を吉田山に招き、磁器を焼かせたことから吉田焼が生まれた。享和年間から食器などの生活雑器を中心に焼き、繁栄した。だが天保年間に入り、生産過剰により単価が下落、窮地に立たされた。
明治に入り、磁器生産の「精成社」が吉田山に創業された。主に輸出用の食器を生産した。有田から学んだ技術の向上もあり中国・朝鮮などに市場を広げ、大正年間には朝鮮半島向けの市場を独占するほど好景気に沸いた。しかし後の朝鮮の情勢悪化や他生産地の台頭などもあり、次第に衰えていった。しかし、窯場を集めて共同出資した吉田製陶株式会社の設立などで合理化を図り、廃絶は免れ今日に至っている。現在は11軒の窯元があり、嬉野温泉の発展に伴い観光客向けの食器を多数焼いている。
特徴
肥前吉田焼は古くから生活向けの食器類を焼いてきており、確立されたスタイルは存在しない。主に染付磁器・色絵などを焼いているが、窯元によって伝統的な青磁から現代的なデザイン、伝承や物語をあしらった意匠のものなど様々である。また作品も湯呑み、茶碗、酒器からコーヒーカップ、花瓶まで幅広い。非常にリベラルな作風を持った陶磁器といえる。

●肥前尾崎焼
肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。
九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役の際に捕虜とした渡来人に製陶の技法を学び、焼いたのが尾崎焼のルーツであると言われるが他にも諸説がある。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。
昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年現在では日の隈窯一軒のみが残っているが、当時の尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。
尾崎人形
尾崎焼のもう一つの特徴として伝統的な土人形制作がある。この人形の歴史は古く、弘安の役で捕虜となったモンゴル兵が地元の人に病気を手厚く看護してもらったお礼に教えたものであると伝えられている。その後表に出ることなく脈々と技法が受け継がれてきたが、人形師であった伊東征隆が福岡の柳川に転居したため、地元佐賀県では廃絶した。だが平成2年に八谷至大が「尾崎焼保存会」を結成し、技術の継承に努めている。この尾崎焼は福岡の赤坂人形の流れを汲む。また、赤坂人形と同様に鳩笛が有名で、鳴き声から「テテップー」という愛称がある。他には軍配持ち、堂内天神、饅頭割小僧などのユニークなモチーフがある。

●武雄古唐津焼(黒牟田焼/多々良焼/小田志焼)